昨年、ムスメが裁判傍聴を体験した。大学で学んでいる(選択科目の)授業の一環として、教授に引率されて霞が関まで行って来たのである。かねてより裁判モノを扱った映画が好きな私は、その話を聞いた瞬間、叫んでいた。
「わたしも私もワタシも行きたい!」
ウザ母の扱いに慣れているムスメは、「イイヨ」と三つ返事で快諾。
テメエで勝手に行けばよいものを、ムスメに引率を頼み、ムスメのスケジュールに合わせて休みを取り、昼食付きでムスメに同行してもらったのである。(婆さんか)
昨年中は「どうせ行くなら本場(?)霞が関に行きたい!」と叫んでいたくせに、今年になった途端、「霞が関までは遠くて疲れる。電車賃もバカにならん。もう、地元の地裁でええ」に変わっていた。寄る都市並み・・・違うな、寄る年波であ老化。
地元地裁ではここのところワイドショーの女王‘記事賄え(る)’の裁判が続いている。が、並んでまでして傍聴したあげく、被告人に殴りかかって退場を命じられたりはしないゾと100%言い切れる自信もなかったので、並ばなくても傍聴できる法廷を選ぶことにした。
その日唯一並ばなくても傍聴できる裁判員裁判は「強姦傷害/強制猥褻」。途中昼の休憩時間を挟んで5時間の裁判が予定されていた。
我々は決して他人事として済ませるわけにはいかない、我々と同じ民間人である裁判員たちが、どのような質問をし、どのような判断を下していくのかを見守りたいと考えた。
休憩に入るまでの前半は、カッコイイ若い女性検察官による公訴事実の朗読から始まった。
被告人は40代の男性。被害者は2人。40代の一人暮らしの女性と20歳近い一人暮らしの女性。共に男性経験なし。いずれも深夜~未明、施錠し忘れた玄関から押し入られた。40代の方は強盗だと思い込み、恐怖心に支配され、殺されないようひたすら事が終了するまでの間声をあげることなく我慢して耐えたが、膣壁裂傷で出血。全治一週間の怪我を負い、その日のうちに警察に被害届を提出。
若い方は強姦される直前、「絶対に嫌だ」との思いから膝蹴りで防御。犯人が逃走したため強姦には至らずに済んだが、その日のうちに警察に届け出た。
被告人は、この2件の前後にも2件(別の地裁)の事件を起こして逮捕されており、この度の起訴は、別件で押収したDNA鑑定の結果に基づいている。即ち40代女性の体内に残った成分と20近い女性を目隠しする際に用いた布に付着していた成分が一致したことから、犯人が特定出来たというわけである。
犯人は一人で酒を飲むたび≪Hな考えに囚われた≫ということであった。この≪Hな≫という言葉が再三登場することに多少違和感を感じつつも、法廷内は厳粛なムードに包まれていた。
裁判官が起訴状の内容に相違があれば述べるよう被告人を促した。被告人は前に出て事実と違うとする2点を挙げた。
「≪胸を撫でまわした≫ とありますが、実際は≪一度触った≫程度です。それから≪騒いだら殺すぞ≫のところですが、自分は≪殺す≫という言葉は口にしていません」
「じゃあ、実際は何と言ったのですか」
「・・・・・・」
「騒ぐな、くらいの感じですかね」
「ハイ」
続いて、弁護人による陳述。検察官が若い女性1人であるのに対し、弁護側は中年男性と(検察官と同じくらいに)若い女性の2人であった。
ロマンスグレーの男性弁護人が、もったいぶった様子で話し始めた。被告人がいかに不幸な生い立ちであったかについて、非常にドラマチックに語り始めたのである。ずっとこのまま芝居がかったテンションだと辛いな、と思っていたら、たぶんご本人も辛くなったとみえ(?)途中からは普通の語調に変わっていた。
ロマンスグレーの弁護人が、弁護人以上に話術に長けた弁士だったので、被告人の生い立ちが同情に価するということはわかった。でも、だからといって犯行に及ぶ理由にはならない。酒に酔ったことを言い訳にするには、矛盾点が多すぎる。
また、友だちがいなかったと言う割には、家を出てから友だちの家を転々とできたのは何故なのか。それに酒に酔ったにしては、鍵のかかっていない家を一軒一軒調べたり、口や目を塞ぐための布を用意していたり、自分の口まで塞ぐ目だし帽をかぶるなど冷静かつ用意周到である。被告人以上にツッコムことが好きな傍聴人もいるのである。
休憩に入り、駅の方に向かう道すがら、ムスメが私に言った。
「裁判員の中にすごく場違いな服装の人がいたね」
「そうだっけ?」
「肩まで出るタイプの襟で、凄く短いスカート。よりによってなんでこの内容(の裁判)なのに?」
座っていたからよく見えなかった。それよりも、と私はムスメに言った。
「≪H(エッチ)な考え≫という表現が何回も出てきたけど、あれはほかに言いようがなかったのかね。事件を軽くしかねない印象だったのだけど」
するとH(エッチ)は別に何とも思わなかったけど、とムスメが言うのだった。
「あの検察官、まだ若そうなのに≪パンティー≫って言っていた」
「ああ、それね、私も≪下着≫くらいにして欲しかったな」
「え? 私は≪パンツ≫でいいのにって思った。≪ティー≫という響きが、なんか昭和っぽい」
平成生まれのアンタが言うかい。
事件の内容が内容なだけに、交わす会話もしょーもなくなりがちであった。
休憩が終わり、後半である。早めに法廷に入った我々は、前半同様被告人が2名の刑務官に付き添われて入廷、手錠が外される光景を見た。
犯人という先入観を回避するため、裁判員たちはその後に入場。
オー、マイガ! ムスメの言った通りであった。約1名、法廷にそぐわないと言わざるを得ないイデタチの女性を発見。肩丸出しで、腰掛けていたからであろうか、皺が寄ったため更に上にズリ上がった超ミニスカの裾から、今にも見えてはいけない、先程ムスメとその呼称について議論したばかりの衣類が見えんばかりである。おばさんは彼女が着席するまでなぜか焦りまくりなのであった。
後半は、被害者に代わり、検察官による意見陳述から始まった。
「これからワタクシが話す≪私≫とは、被害者Aさんのこととご理解ください─」
非常に生々しい描写─R18的名詞が発禁本並みの動詞を生んでいる中、遅れて入ってきた者がいる。出入り自由ではあるが、タイミングがあまりにも赤裸々。
そいつは私のすぐ後ろの席に座った。しかし、なかなか落ち着かない。ゴソゴソゴソゴソひっきりなしに音を立てている。うるさい。耳触りである。
しかもムスメの言を借りれば、「ゴソゴソが途中からゴシゴシに変わった」ではないか。それだけではない。あろうことか、そいつは規則的な摩擦音を立てながら、時々ごく小さく「んふっ」と呻き、「クソッ」とつぶやき、「ん!」と喘ぐのである。
1列は4シート。そいつは後ろから2列目の、一番ドア寄りの端っこに座っていたが、何しろ摩擦音がうるさい。同じ列のもう一方の端に座っている男性が振り向く気配がすると同時に音はピタッと止む。そしてあまり間を置かずに再開される。
前方の刑務官の1人がわずかに顔を後ろに傾けた。と、すぐにピタッと音が止み、刑務官は空耳かという感じで前に向き直る。しかし、直に再開。
悪夢かと思った。この神聖なるお白洲で、今自分のすぐ後ろで一体何が起きているのか!
気が狂いそうであった。裁判官までは決して届かない微妙なな音量で、だが確実に後ろの馬鹿野郎がよからぬ行為に及んでいるのである。今にも不浄の濃縮液をぶちまけそうになっているのである。
気が気ではない。裁判に集中しろという方が無理である。過剰に露出気味の裁判員といい、後ろの席で淫行に及んでいる馬鹿野郎といい、この法廷はおかしい!
被告人がまともに見えてきそうになった時、ムスメがメモを寄越した。
『一旦外に出てから別の席に移動する?』
頷いた私はほうほうの体で法廷を後にした。
花粉症で嗅覚がマヒしていた私には不幸中の幸いでわからなかったのだが、馬鹿野郎は入ってきた瞬間から異臭を放っていたらしい。
ムスメが、ついてないなぁ、変な人が入ってきちゃった、と思う間もなく、馬鹿野郎がおっぱじめた行為はムスメもしっかり感知していた。
「意見陳述をBGMに抜こうなんて!」とわが耳を疑うような憤り方。あんな馬鹿野郎と同じ空気を吸いながら裁判を傍聴しなければならないのか。
我々は1階事務局に訴え出ることにした。
しかし、事務の人は難色を示した。─裁判長が退出を言い渡さない限り、裁判自体を妨害するのであればまた別ですが、どの人にも裁判を傍聴する権利はありますので・・・。
奥から出てきたもう1人が、「今行って様子を見てきます」とは言ってくれたが、おそらく無駄だろう。ちょっとの気配でもピタッと止める程度の理性は保った馬鹿野郎なのである。
しかも私と目が合う直前に、そいつはすでに態勢を変え、足の脛を掻くフリまでしやがった。反吐が出る。目が合った時のあの顔が忘れられない。恍惚とした魯鈍な目の中にも、してやったり的不敵な色を湛えた笑み。反吐が出そうになった。
悔しいの一語に尽きる。我々は、とんでもない馬鹿野郎による、あり得ない愚行のせいで、とうとう法廷に戻ることが出来なかった。キモチの悪さから立ち直れず、地裁を去ったのである。ほかの誰よりもそいつに近い距離にいた母娘は、裁判を見守ることも叶わず、不完全燃焼のまま傍聴を切り上げた。馬鹿野郎だけがボウチョウし、完全燃焼するなんて。こんなことでいいのか、ニッポン。
信じられないが、実際にあった話なんである。
傍聴人にも身分証明の提示を義務付けるべきである。(ぅぅ、グヤジイ。有休を返してくれ!)