2009年 03月 02日
「名作」に迷わされた日
「奥さ~ん、コレ意味通じる? ちょっと聞いてみて。
──で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。──意味通じた?」
‘で、’って何だ、‘で、’はないだろう。もう少しマシな接続詞を使えんのか。
「意味わかんない。直訳しないで、ちゃんと日本語になるように訳しなよ」
私が難癖をつけると、ムスメはハハハと笑ってこう言った。
「別に英文和訳をしたわけじゃないよ。これもともと日本文だよ。しかも文学作品ですよ、奥さん」
「嘘をつけ」
「ほら、国語の教科書に載ってる。ダラダラ長いけど、これ一文なんだよ」
ムスメ(高1)が差し出す国語総合の教科書を覗き込むと、そこには確かにムスメが音読したとおりの文が載っていた。転記ミスではない。一語一句ありのまま。
なんとこの下手糞な日本文、志賀直哉の「城の崎にて」の引用であった。
深呼吸をして、もう一度大マジメに読んでみる。
──で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。──
ムスメの顔を見て、問う。
「ママは頭がおかしくなったのかな。それともこの文が・・・」
「文のほうでしょう」とムスメは言った。「国語の先生も言ってたもん。‘名作と言われてますけど、先生の率直な感想は『つまらない』でした’って」
「いや、つまるつまらない以前に、文脈がひど・・・」
「だよね~?」とムスメ。「これ読んでると頭が狂いそうになる」
ムスメが抜粋した一際難解な箇所以外にも目を通してみた。クエスチョン・マークしか浮かんでこなかった。
「ごめん、わからないや。これのどこが名作なのか、ママには理解できない」
私同様「この作品のドコが名作なのか」と疑念を抱いたムスメ、すでにネットで調べて自分なりに答えを見つけ出していた。
「城の崎にて」を明快に読み砕き、我々母娘の疑念に解りやすく応えてくれたブログ「Blog ことば・言葉・コトバ」の中で、筆者は言い切る。
「城の崎にて」には感動がない。そして、この作品が志賀直哉の代表作とされる常識に不満を覚えると結んでいる。
まったく同感だ。
授業で教わったところによれば、教科書に載っている「城の崎にて」の文中のデカ文字「それ」と「両方」は、それぞれ下記のような意味を成す(らしい)。
「それ」・・・死に直面したとき
「両方」・・・「静かに死にたい」という気持ちが、死に方に影響する場合と影響しない場合。
実際の局面では、願いどおりになるものではないが、あるがままに静かに死を迎えたいというのが作者・志賀直哉の本音であろう。
「何が‘静かに死を迎えたい’だ、バカヤロー」
私は当時34才だった志賀直哉に毒づいた。
「城の崎にて」のテーマは「生と死」。そのモチーフの一つ「イモリ」に関するエピソードを読むと、小動物殺しがエスカレートして、やがて対象が人へと発展していく猟奇的殺人を連想してしまい、胸が悪くなる。
作中の「自分」(=直哉自身)は、イモリを驚かそうとして、イモリよりデカイ石を水に投じる。そうして殺しておきながら、ねちっこく自分を正当化する。
──自分はしゃがんだまま、わきの小まりほどの石を取り上げ、それを投げてやった。自分は別にいもりをねらわなかった。ねらってもとても当たらないほど、ねらって投げることの下手な自分はそれが当たるなどとは全く考えなかった。(中略)その気がまったくないのに殺してしまったのは自分に妙な嫌な気をさした。もとより自分のしたことではあったが如何にも偶然だった。いもりにとっては全く不意な死であった。──
ヤモリもイモリも好きな私は、教科書を読みながらムカムカした。
「嫌なヤローだ」
「Blog ことば・言葉・コトバ」の筆者が、志賀直哉といえば「城の崎にて」とされる常識に不満を感じたのと同じように、私はこの作品が高校生の教科書で取り上げられたことが物凄く不満だ。
感動を覚えないどころか、若い人たちの読書離れを助長する「有害図書」ではないかとさえ思う。
自己中心的で読者置き去り。奥が深いというよりは文脈の乱れにより難解。まるで出口のない精神病棟を彷徨うようなこの小説から、一体何を学べというのか。
おかげでムスメは学校の授業に関する限り「古文」の方がずっと面白いと言う。読者にとっては必ずしも小説が書かれた「時代」が障害になるわけではない。いつの世の読み手にも感動を与えられる、そういう作品が本当の名作だと思う。
例えば、鴨長明の「方丈記」。
──ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。──
あぁ、水の流れにも似た美しい名文。私の目は笹舟となり、ゆく河の流れに乗り、気持ちよく文字を追って旅することが出来る。読み直さずとも、すんなりと頭に入ってくる。
しかし「城の崎にて」は、私にとっては河の淀み。枯葉となった私は、同じところをくるくる虚しく回るだけだ。
浅田次郎の小説が流暢で読みやすいのは、作家が自分の書いた文章を何度も何度も音読しているからだと聞いた。あれほどの作家であっても、声に出して読むことによって、自身の文章を切磋琢磨しているのだ。手で掬い取ったドロの塊(言葉)を、集めて固めて撫でまわして、玉のような泥団子(文章)に仕上げているのだ。
志賀直哉は、はたして「城の崎にて」を自ら読み返し、納得した上で発表したのだろうか。そのへんが不思議でたまらない。
また、ムスコの塾で使用している国語の教材では、たびたび重松清の小説が引用される。ムスコはもともと重松清の小説が好きなので、馴染みの一節が問題に出たりすると大喜びだ。文章題に使われている重松清の小説は、そのほんの一部分を読んだだけでも十分魅力が伝わってくる。本好きな子なら原作を読んでみたくもなるだろう。
学校の教科書には、生徒にプラスになるような作品を採用してもらいたい。感動するしないは別として、せめて日本アルプス並みに美しい文脈で書かれているとか。少なくとも教える側が「つまらない」と感じるような小説は選んで欲しくない。
あ~ぁ、ムスメの教科書を覗き込んで、ここまでケチをつけることになろうとは。それも、日本文学史に名を連ねる志賀直哉の作品に対して。愛すべきイモリやヤモリがクソミソに扱われたことを恨んでいるのだろうか、私は。
でもやっぱり「城の崎にて」は名作ではない。ホント、迷作だと思う。言い切っちゃうよ、今回は。
by vitaminminc
| 2009-03-02 20:10
| 志賀直哉
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