Make up→Wake up

b0080718_1548920.jpg GW中、たまたま乗ったローカル線の車両で、異様な光景を目にした。
 友だちに1通メールを送ったあとで、ふと周りを見渡してみたら、同じ車両に乗り合わせた大多数の人が、みな携帯を手にしていたのである。私と同じ右側のシートなど10人中9人。ちなみに携帯を手にしていなかった残りの1人というのは私の息子。つまり、私が携帯を開いていたちょっと前までは、こちら側の(息子を除く)全員が携帯画面を見ていたことになる。文明の利器とはいえ、何かに操られているようで、ちょっと不気味であった。
 ローカル線なので、一車両は短い。向かい側(左側)のシートは右側ほどではなかったが、それでも約半数(6人中3人)がうつむいて携帯に見入っていた。と、そのうちの1人の若い女性が、「カチャッ」
 と音を立てた。携帯をしまいコンパクトを手に取ると、化粧のチェックを始めた。降車駅が近いらしい。
 今では慣れたが、折り畳み式携帯が出始めたころは、あの二つに折った瞬間の「カチャッ」が、どうしても化粧用コンパクトの開閉音に聞こえた。車内で近くにいたいかつい男性がそんな音をさせたりすると、思わず「ん?」とその手元を確認したものである。

 以前テレビで街行く若い男性を対象に、「女性のどんな仕草に幻滅するか」というアンケートをとっている番組を見た。意外にも、「電車の中で化粧をする」という回答が多かったので、「アレ?」と思った。私自身はもちろんやらないが、若い女性の電車内化粧に眉をひそめるのは、もっぱら中年以上の男女だとばかり思っていたからだ。平成に入ってからあまりにも頻繁に見られる光景だったので、若者文化(どこがじゃ)の一つなのかな、くらいに捉えていた。若い男性にも不評だったとは。結果は受け入れても経過は勘弁ということか。案外まともな美意識に、ムッとするようなホッとするような・・・。
 ところで、若い女性の「電車内メイク」は決して褒められた行為ではないが、実のところ私はそれほどうるさくない。これには、ちょっとしたワケがある。今から十数年前に、そんな不快指数など霞んでしまうようなもんを毎朝見ていたせいだ。

 当時渋谷の事務所に勤めていた私は、通勤に銀座線を利用していた。少々遠回りであったが、浅草⇔渋谷は始発⇔終点の関係。「座って眠りたい」、ただそれだけの理由で利用していた。その女性のことを仮にメイクの「メイちゃん」と呼ぶことにしよう。私がメイちゃんの存在に気づくのに、さほど日数はかからなかった。もしかしたら、銀座線に乗り込んでから自分が座る定位置を決めた日からだったかもしれない。
 メイちゃんはその朝、先頭車両に駆け込み乗車してきた。そして私の目の前のシートに座るとおもむろにバッグからポーチを取り出して、熱心に化粧を始めた。当時はそんなことをするには相当の勇気が要る時代。でもメイちゃんは平然とやってのけた。それも、単にファンデーションを塗り直すとか、アイシャドーや口紅を引くといったポイントメイクを施すのではない。すっぴんぴんの顔面に下地クリームを塗りたくるところから始まる、本格メイクだったのである。
 ほかの駅から乗ってくるビジネスマンは、最初はみな一様にぎょっとした。それでも彼女の顔を見ずにはいられない。日経新聞の端からこっそり窺っているのがわかる。中には、このムスメがやらかしていることの答えはどこにあるんだといわんばかりに後ろを振り返り、私と目が合うと「ありゃ何だ?」と目で訴えてくるおじさまもいた。
 どんなに奇異な視線を浴びようとも、メイちゃんは決して動じることがなかった。この車両に乗っている人間などまったく眼中にないという集中力。一心不乱に化粧を進めていく。化粧の工程によっては左右の目のサイズが違う数分間があったりして、抗し難い魅力に溢れていた。30分間、完全に目が釘付けになった。
 メイちゃんを知った初日は、彼女が走って乗り込んできたこともあって、寝坊したのだろうと思っていた。うっかり寝過ごしたために化粧もせず家を飛び出したはいいが、仕事は接客業。ノーメイクのまま職場に行くわけにはいかないのだろう、と。
 しかし、違った。
 電車内メイクはメイちゃんのライフスタイルの一環、毎朝の日課だったのだ。少々の電車の揺れなどものともせず、慣れた手つきで次々ポーチから化粧アイテムを出したりしまったり。終点渋谷に着くと、乗ってきた人とはまったく別の人がスタスタ降りてった。
 銀座線の始発から終点までは、軽く30分以上かかる。メイちゃんは私の3倍以上の時間をかけて、ひたすら顔面づくりに没頭していた。ビューラーで睫毛をカールした後、マスカラを塗り、再びビューラーでカール。口紅を塗った後には艶出しグロスも忘れない。チークカラーはピンク系とオレンジ系の2種類を同時に塗っていたろうか。仮にこれだけのことをすべて家で済ませて来ようとすれば、30分早く起きる必要がある。メイちゃんは、体裁よりも睡眠時間を優先させる合理主義者だったのかもしれない。時間の有効活用である。顔のカ行変格活用である。(意味不明)
 メイちゃんの30分メイクにも飽きた頃、私は私で、座ると眠るという本来の目的を果たすべく、電車に乗ると同時に熟睡モードの日々を送っていた。ところがある日、電車が急停車。条件反射のようにメイちゃんを見たら、ちょうどウエットティッシュで「頬の口紅」を拭き取ろうとしているところだった。その超然とした表情は神々しくさえあった。以来、毎朝彼女が一駅ごとに別人になっていく過程を憧憬の眼差しで見守り続けた私である。

 今だったらどうだろう。あの当時ほどには注目を浴びずにメイクができるだろうか。周りのみんなはきっと携帯に目を落としている。電車内メイクも珍しくはなくなった。今、メイちゃんをしのぐ顔面パフォーマンスをするとしたら、電車に乗ってから顔に「パック」を施し(目だし帽か)、おりる直前に「パック」をベリベリ剥がすしかない。あの時代のあの入魂メイクは、それほどインパクトがあったのだ。
 携帯を閉じる音を耳にするたび、そして電車内メイクを見かけるたびに、眉をひそめるより先に目尻が下がってしまう。
 20代だった私の眠い目を毎朝顔面アラームで覚まさせてくれたメイちゃん。その警鐘的化粧が、今となっては懐かしい。

 
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# by vitaminminc | 2006-05-09 15:44 | 人間 | Comments(2)
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                    息子(超ユルキャラ)→

 先日、野又穣氏の絵が飾ってあった友人宅にお邪魔した日のこと。
 最寄駅でおりて、迎えにきてくれる友人を待っていたら、
「たぶんこっちから現れる」
 と息子が予想した通りの道を歩いてくる友人の姿が見えた。これから塾に行くところだという高校生の息子さんを伴っていた。
 礼儀正しく気持ちの良い挨拶をしてくれた息子さん。そのキリリとしまった表情が、あまりにもうちの息子と対照的だったので、思わず微笑み以上の笑いが浮かんでしまった。「アルジャーノンに花束を」のチャーリー・ゴードンに例えると、うちの息子が脳の手術を受ける前、IQ68のチャーリー。友人の息子さんは手術を受けた後、IQ185のチャーリーといった感じである。

 さて、我が息子。友人が昼食に出してくれたアサリのお吸い物を飲みながら、
「アサリは久しぶりだなぁ」
 と一発。しょっぱなから私を赤面させてくれるではないか。
 息子はつい最近までハマグリを巻貝の仲間だと思っていたくらいだ。そのため「アサリもうちでは高級食材でして・・・」と説明しようとしたが、その必要はなかった。お吸い物を飲み干すまでの間、「アサリは久しぶりだ」を連発してくれたからである。(TwT)やみてくりってんだよ。
 それだけではない。イクラと鰻とハマチ?とマグロ?が載ったおいしいお丼をいただきながら、
「う~ん。活きのいいイクラだ」
 なんて言ってイクラを追加してもらい、ごはんだけ残すというろくでもない食べ方をしてくれた。
(ーー;)いい加減にすろよな。
 もう今更何を言い繕ったところで無駄だと観念した。
「あ。今、出ちゃった」
 下半身から気体を放出させるたびにいちいち報告するバカっぷり。叱る気力も消え失せる。はひふ屁放棄だ。性格がここまで緩んでいると、菊門までもが緩んでくるらしい。
 それでも帰りの電車内で、一つだけ空いた席を見つけると、オバタリアンのような勢いで席を確保、私を座らせてくれた。おや、やさしいなと感心していたら、自分も疲れていたらしい。めずらしく甘えたように私の膝の上に座ると、間もなく寝入ってしまった。落ちないように息子を抱きしめながら、こいつはこいつのまんま育てようと決意のようなものを感じた。

 人生の先輩に、この日の息子の愚行を話したところ、
「ママにもママのお友だちにもうんと気を使っていたんだよ。いい子じゃない」と息子の肩を持った。それもそうかな。ただ振舞い方がズレていただけなのかな。だとしたら泣かせる・・・。
 しかし。
 その後、家でブリッジの姿勢をしたままテレビを見ながら、
「あ。出ちゃった」
 と言って自分で自分の臭気を浴び崩れていくバカ息子を見たら、やっぱりただの「地」だったんではないかと裏切られた気分になった。それでもとことん親バカでいくしかない。
 幼稚園の門のところにそびえる桜の木が道路の拡張工事で切り倒されることを知った日の晩、「桜の木がかわいそうだ」と号泣した息子。公園の片隅に散乱していたカブトムシのバラバラ死体を集め、土に埋めてあげていた息子。水を抜かれ、枯れゆく噴水の水溜りからオタマジャクシをすくってはバケツに保護していた息子。いろんな断片を思い出しては、やっぱりこれがこいつでこいつがこれなんだと納得。
  
 自分はいくつになってもどうしようもない下ネタばかり披露して私の血圧を上げるくせに、先日クラスの男の子を呼んで一緒に「人生ゲーム」をやったときの息子の言い草には笑った。ゲームの説明書を紛失していたためあやふやになっていたルールを、息子の友だちが正してくれようとしたのだ。友だちはすっくと床から立ち上がり、額の汗を腕で拭い(←暑い日だった)ながら、切り出した。
「うちんちのルールを説明するね──」
 その姿を見て、息子が苦笑しつつ一言。
「なにも立ち上がってまでするほどの話じゃないと思うんだけど・・・」

 おい。ならば、放屁には、報告するほどの、意味が、あるのか? 

 
 
 
# by vitaminminc | 2006-05-07 16:36 | 子ども | Comments(4)
b0080718_19415939.jpg←グレゴール・チョッキン
何の変哲もない、どこにでもいる海老茶色をしたザリガニだったが、うちに来てから徐々に体が淡いブルー系に変色。ハサミにいたっては美しいペパーミントグリーン。大変さわやか。
b0080718_19515386.jpg←S43年9月15日 26刷 定価60円(安い!)の新潮文庫。イラスト画家は伊藤明氏(写真提供=賢者1号)

 3月26日付の新聞で、村上春樹氏が「フランツ・カフカ賞」を受賞したという記事を読んだ。
 なんだか最近やたら懐古趣味に走りがち。70~80年代のJポップスを聴いたり、10代の時に読んだ本が無性に恋しく、読み返したくなる。老化現象の一種に違いない。

 そんなわけで、「フランツ・カフカ賞」の記事の影響だろう、4月はじめ実家に遊びに行った際、迷わず自分が昔使っていた書棚に直行。手に取ったのは、カフカの珠玉の短編「変身」だ。
 「変身」は、高校のド真ん中、高二の真夏の真夜中に読んで以来、私の最も好きな短編小説であり続けた。このたび自宅に持ち帰り、読み返してみて改めて感嘆した。透徹した実存主義文学の金字塔ここにあり。大人になって、それも子を持つ母となった目で読むと、高二の時には読み落としていた(あぁ、もったいない)行間までもが読めてきて、まさに目から鱗ンタクトレンズがポロリ。まったく無駄のない文章は、減量して鍛え抜いたボクサーの体躯。高橋義孝氏の洒脱な名訳による一文字一文字が、飛び散る汗のようにきらめいて見えた。こんな薄い本に、こんなにも厚意を寄せられるようになろうとは。「老化」を「成長」と感じさせてれる、カフカの度量に感謝した。
 高二の時点でこの小説を「完璧だ」と絶賛してはいたのだが、主人公グレゴール・ザムザを慈しむには、自分はまだ未成熟すぎた。今回は、ものの見事にグレゴール・ザムザのとりこになった。巨大な毒虫に変身した彼の、現実を受け入れていく順応性。自分の変わり果てた姿を眼の当たりにしたときの家族や上司のリアクションを想像し、「わくわくし」てしまう快活さ。慣れない身体に不自由するも、動作を一つ一つクリアしていく不屈の精神。妹がドアのところに置いた、グレゴールの好物(甘い牛乳にちぎったパンを浸したもの)を見つけた時には、「うれしさのあまり声を立てて笑い出しそうにな」るのだが、虫の身体が好物を受け付けず、「ぞっとしたといわんばかりに壺から頭をそらせて、部屋の中央に這い戻ってしま」う 愛らしさ。そして、習性までもがだんだんと虫へと変化していく中、ベッドの上ではなく寝椅子の下に、「ちょっと照れくさい思いをしながら」身を潜めてホッとする様子には、大いに母性本能がくすぐられた。
 また、グレゴールが、一家の稼ぎ手である自分が働けなくなったことで、老いた両親やまだ学生の妹の行く末を案じ始めた頃、彼の知らないところで父親がこまめに貯蓄に励んでいたという会話を立ち(這い)聞きした時の短い描写には、シュルシュルと舌を巻き、私も危うくカメレオンに変身するところだった。
「グレゴールはドアのうしろでせっかちにうなずき、この思いがけない用心と倹約とをよろこんだ」のだ。─あぁ、なんと健気なことよ。なんと家族思いの息子であろうか。私は「せっかちにうなず」いている毒虫の触角に触れたかった。そのいじらしさに涙しながら、ひゅんひゅん揺れる触角に、いつまでも触れていたいと思った。
 それゆえ、<結末>を見届けた後は、なかなか立ち直ることができなかった。グレゴールにわずかに残された人間らしい感情を、彼の家族は誰一人として理解することがなかった。兄が大事にしていた壁の絵を取り外そうとした時、妹は、毒虫がなぜ額のガラスにへばりついたまま離れようとしなかったのか、考えてみようともしなかった。妹を希望の学校に進学させてやりたいと願っていた妹思いの兄、仲良しの兄妹だったではないか。家族にとって彼は、もはや醜悪な姿をした巨大な毒虫でしかなくなっていたのだ。
 読後、熱病に侵されたように「変身」の魅力を吹聴し、グレゴールに自分がしてやれることはないだろうかと途方もない考えにとらわれていると、賢者の1人が38年前の「変身」の文庫本写真を送ってくれた。実は、「変身」を読み返している間中、グレゴールの無器用さが、うちで飼っているザリガニの「チョッキン」と重なって仕方なかったのだが、奇遇にもその文庫本の表紙に描かれたイラストには、ザリガニのごときハサミがあった。蠍をイメージしたものだろうか。心なしか、目までチョッキンに似ている。

 余談になるが、チョッキンは自分の身体の扱いが下手で、見ていると滑稽だ。どうも狭い水槽の中では、大きなハサミは無用の長物でしかないらしい。餌を落としてやっても、実際にそれを掴むのは巨大なハサミではなく、胸元に生えている細い小さなハサミ。だから餌がたまたま水槽の端に落ちたりすると、大きなハサミが行く手を塞いで前に進めず、餌を掴むことができない。やっとのことで身体を180度方向転換すると、腹を水槽の壁に押し付けるように身体を傾げてみせる。そして下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式に、たくさんの細い脚をジタバタさせて、どれかが餌に触れることに一縷の望みを託し、ひたすらもがく。見ていて実にじれったい。三十六人羽織でも見ているかのようだ。かと思うと餌が顔の鼻面に落ちてきても気づかないで、ずっと顔の上に載せたままでいることもある。

 グレゴール・ザムザが自分の身体を思うように操縦できずにいた変身当初、チョッキンの姿がオーバー・ラップしてしまったのも無理はない。私が持っていた「変身」のカバーはカフカ自身の顔写真をデザインしたものだが、かつての表紙絵がチョッキンに似ていたことを受け、名前を「グレゴール・チョッキン」と改めた。かくしてグレゴールの家族が彼にした仕打ちを詫びるかのように、そして片想いに似た情念を鎮めるかのように、蒼ざめたザリガニに注ぐ愛情を倍増させている私なのである。
 これは、グレゴール・ザムザの結末に傷ついた自分の心のケアでもあり、カフカに寄せる敬意の表れでもある。
 
──カフカは模倣できない。彼は永遠の誘惑となって、地平線に残るだろう。
                                  (サルトルの言葉より)


 
# by vitaminminc | 2006-05-06 19:40 | 生きもの | Comments(2)

夢想in空想

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 昨日訪れた友人宅の居間に、二枚の絵が飾られていた。友人に聞いて、その絵が野又穣氏の作品であると知った。
 絵の中に、人はまったく描かれていない。描かれているのは空想建築ともいうべき建造物が一つ。そのため、第一印象として、まず「寂寥感」のようなものを覚える。ふつう寂寥感というのは積極的に味わいたいものではないはずなのだが、どうしても惹きつけられてしまう。天空を意識させる建物、深みのある空の色や上昇気流を感じさせる雲の動きが、圧倒的な「解放感」を与えているせいだ。
 まもなく、私はあることに気づいて胸がキュンとなった。無人の風景は、人を拒んでいるのではない。人が存在する理由を再認識させてくれる──そんなやさしさを秘めているように思われた。
 人が集う居間に飾られた二枚の絵は、見た者の心を塔の中に呼び込み、そこから遥か上空まで引き上げ解き放ってくれるような気がした──「対流」のように。

 その絵を見た翌朝、不思議な夢を見た。もともと夢なんて不思議なものに違いないが、今朝見た夢は格別だった。自分が遭遇するシーンごとに、第三者としての自分が何らかの分析を加えながら展開していくのだ。
──私は知らない街にいる。辺りは暗く、足がすくむような雷、そして豪雨。雨のスクリーンの向こうに、なにやら建物らしき影が揺らめいて見える。あそこに行きたい。だが動けずにいる。
 と、誰かに強く手を引かれた。夢の中の自分が何歳くらいなのか見当もつかないが、間違いなく夢の中の自分と同じくらいの齢の女性。彼女は私の手をつかむと、頼もしく頷いてみせた。そして次の瞬間、私たちは勢いよく走り出していた。
 (これは母だ)ともう一人の自分が直感した。(母があそこの建物まで私を連れていってくれようとしている)
 夢を客観的に見つめるもう一人の自分がそう判断すると、シーンはいつのまにか建物の内部に変わっていた。コードが抜かれたままのテレビが、剥き出しの地面の上に放置されている。誰もいない。初めて入った建物のはずなのに、前に見たことがあるような気がする。
 (これは昨日見た絵の中だ)ともう一人の自分が納得する。(友だちの家で見た、あの絵の建物の中なんだ)目覚ましが鳴り、夢はそこで途切れた。

 夢から覚めた私は、夢の中のもう一人の自分に代わって最後の分析を試みる。つい最近、母親が確実に老いてきたことを認めないわけにはいかないシーンがいくつかあった。見た目は若いが、母親は実際古稀を過ぎている。駅の階段の途中で立ち止まってしまう母。それを待っている時や、手を引いて歩いた時に感じた切なさを、私は消化し切れず心の中に溜めていた。あの二枚の絵は、そんな思いを吸収していたのかもしれない。
 だから夢の中で私を塔に導き、解放してくれたのだ。そんな気がしてならない。

 (写真は「ゆんフリー写真素材」さまより拝借)

# by vitaminminc | 2006-05-05 17:20 | Comments(0)

思春期vs更年期

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←メルちゃん(ムスメの過去形)

 中学生のムスメは、今思春期真っ盛り。「花も恥らうローティーンです」と言いたいところだが、口が裂けても言えっこない。なにしろ家にいるときのムスメは、完全にオヤジ化しており、あの素の姿を見てからというもの、開いた口がふさがらないからだ。静かだなと思って振り返ったら、椅子に腰掛け片膝立てて、スルメをかじりながら宿題をやっていたのである。

 私の記憶の向こう岸にいるムスメは、お人形の「メルちゃん」によく似た、本当に女の子らしい幼女であった。メルちゃんは、お湯に浸けるとブロンドの髪がピンク色に変わるお人形。頭からお湯をかけてあげるのではなく、メルちゃんの頭を何度も湯船に浸しては、髪の色が変わる様子を楽しんでいた、あの残酷な・・・いや無邪気なムスメは、いったい何処へいってしまったのか。
 まあ、小学校に入学したムスメの授業参観を初めて見にいった日のことを思い出せば、その頃すでにオヤジ的要素が芽吹いていたことを認めぬわけにはいかなくなる──教室の壁に、こどもたちが自分のことを紹介している似顔絵が貼られていた。顔の横には、自分の好きな食べ物を書くようになっていた。「いちご」とか「ケーキ」など、愛らしい食べ物が並ぶ中、うちのムスメはと目をやると、丁寧な字で「ナンコツ」と書いてある。のけぞった。どこに焼鳥の種類なんかを書く6歳女児がいる? しかもナンコツ。マニアックすぎる。

 中学生の子を持つ周りの親の声を聞くと、みな一様に「反抗期でまいる」という。うちのムスメだって例外ではない。ただ、その反抗のカタチがちょっと異色。自分の部屋に閉じこもったきりパソコンや携帯ばかりいじり、親を煙たがってやたら口ごたえする──これがノーマルパターンだとすると、ムスメはこれには当てはまらない。確かに携帯もパソコンもいじりはするが、自分の部屋にこもることがない。宿題は居間でやる。テレビの騒音と猫たちの肉球攻め、そして母親(私のことだ)の「邪魔だ、自分の部屋で勉強しろ」という罵詈にも屈せず、思い切りオヤジ丸出しの姿を見せつけ、居直り勉強。何かを注意したり、手伝いを頼んだりしても、口ごたえはせずに「はーい」と返す。ただし、それを機に改めようともしなければ、次回から進んでやろうともしない。頑固オヤジである。
 学校ではさすがに・・・というより、むしろ自然体として、このオヤジの側面はさらしていないようだ。となると、なぜ家でだけオヤジに変身してしまうのだろう? つまり、これこそがムスメの「反抗」のカタチなのである。自分の部屋に南京錠まで取り付けてよからぬ思い?に耽っていた自分の昔を思えば、常に親の目の届くところにいるムスメなんぞカワイイもんだ。でも、あの女の子女の子して可愛かったムスメ=「メルちゃん」を諦め切れずに嘆く自分がここにいる。
 一度、あまりにものらりくらりということをきかないものだから、啖呵を切ったことがある。
「思春期だからっていい気になって反抗したって、更年期に勝てるわけないんだからね!」
 2秒後、ムスメは笑い出した。「何言ってるの~?」と。まったく、食えないオヤジである。
 ところが、たま~に「メルちゃん」が顔をのぞかせる瞬間があるのを、昨夜偶然知った。居間にオヤジ化したムスメの姿が見えないので、「もう遅いから早くお風呂に入りなさい!」と部屋に呼びにいくと、ムスメは部活疲れでベッドで仮眠中。名前を呼ぶと、ムクッと上体を起こし、にっこり。そのあどけない表情がとても穏やかで、つい「早くお風呂に入りなさいよ」なんてやさしく言い直してすごすご退散。
 今朝、5時頃起き出してシャワーを浴びているムスメに、「昨日お風呂に入らなかったの?」と目くじらを立てると「なんで起こしてくれなかったの~?」と泣きつかれた。起き上がってにっこり笑うから、てっきり完全に目を覚ましたものと思っていたが、ムスメは何も覚えていないと言う。
 あの童女のような微笑み、どこかで見たゾ、どこかで見たゾと思っていたら、遠い日のメルちゃん顔そのものではないかと気がついた。どんなにオヤジ化しようとも、「三つ子の魂、百まで」。メルちゃんは、ムスメの深層心理に深「層」の令嬢として生き続けていくに違いない。──そうでも思わないと、この先心配。思春期的反抗心に立ち向かうには、更年期的兵糧攻めでいくしかない。もうおやつにスルメなんか買ってやるものか。

 スルメに告ぐ・・・ぃゃムスメに告ぐ。風呂にも入らず朝まで寝るな! 「女らしく」とまでは言わない、せめて「普通」でいてくれ。あなたの母の辞書に、「あきらメル」という文字はない。
 

# by vitaminminc | 2006-05-02 09:11 | Comments(2)
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4月19日の晩、冬眠から目覚めたコクワガタ→
の五十嵐くん。
うちでは4/19=飼育記念日とした。

 ──ドブソウジンバブエの朝は、早い──
 久米明の、まるで複式呼吸のように深く腹に染み入るナレーション。それが似合う光景が、ココ埼玉県某市の市街化調整区域の一角にはある。
 私の実家は東京23区内で最もカントリーといわれる下町。それでもソコに下水道が通り、私の両親が長年のドブ掃除から解放されたのは、今から30年以上も前のことである。何の因果か、親の世代よりも後に生まれたはずの私が、21世紀の今になって、ドブ掃除をやっている。誤算だらけの住宅購入、(ドブの)フタを開けてみたら、ドブ掃除が待っていたというわけだ。歴史は繰り返されるというが、「まったくだ」と言いたい。
 毎月最終日曜がドブ掃除デーである。セーラーマンのようにデッキブラシを握り、ドブに溜まったヘドロをかき出す。甲板の上なら雄大な鯨の潮吹きも拝めようが、悲しいことに、ココは側溝。絵の具の緑色と群青色と灰色に赤土を混ぜたような泥を浴びませんように・・・と憂鬱に拝んでいる。
 ところで、このドブ掃除。開始時刻は一応朝の8時と決められている。私の感覚では、「8時」といえば、「8時までに集合」を意味するが、ココでは違う。その日一番早く外に出てきた人が鳴らすドラの第一声が定刻となる。正確には、ドブにかぶせてある重い鉄のフタを持ち上げ、道端に返し置くときのじゃかましい音が鳴り響いたとき──これが始まりの合図だ。
 目覚ましは毎月8時10分前にセットしているが、ただの一度も目覚ましに起こされたためしがない。もう10年間もドラの音に起こされている。眠い目をこすりこすり目覚まし時計の針を見ると、7時20分を指していることなどザラだ。それでも私は意地でも毎月8時10分前に目覚ましをセットする。間違ってうちが一番に出ていこうものなら、開始時間が際限なく早くなっていきそうな恐怖があるからだ。
 我々のような「中年」の域に足を踏み入れている者ですら「若い人」と呼ばれてしまうくらい、ココの平均年齢は高い。早朝散歩も朝食も盆栽いじりもすべて終え、残っているのはドブ掃除だけ。日曜の早朝、そんな過密スケジュールにお付き合いするには、うちも土曜の晩の消灯を9時にするしかない。ムリである。
──老人バブエの朝は、とてつもなく早い──のである。

# by vitaminminc | 2006-04-30 19:09 | 人間 | Comments(0)
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 今年もまた私の相好を崩させるものとの対面が叶った。小学生の息子が、学校で配られた「ぎょう虫検査」のセロファンを持ち帰ってきたのだ。正式名称「ウスイ法 ぎょう虫検査セロファン(2回採卵式)」。
 これがまた実に愉しいシロモノなのだ。まず、「記入のしかた」からして愉しい。

 例) 1年1組23番 丸 和 太 郎さんの場合

 となっている。駄菓子「もろこし輪太郎」なんかはこちらの親戚筋かもしれない。
 そして極め付きなのが、「使う時の姿勢」である。大正浪漫の香り漂うキューピーちゃんがしゃがみ込み、右手で自分の肛門にセロファンを押し当てている絵図だ。キューピーちゃんは、
「こんな感じでいいのかなぁ~?」
 みたいな微妙な表情で、自分のお尻というよりは、我々の方を振り返っている。運がよければ目が合う人もいるかもしれない。
 さらに、そのキューピーちゃんの左横には、セロファンの扱い方として、
 1.1日目  2.2日目  3.カバーをすてる  4.はり合わせる 
 という4つの図解入り。だが、これがいけない。図4が、たまたまキューピーちゃんの臀部の下に描いてあるために、キュー・・・いや、この際名前で呼ぼう─丸和太郎さんがせっかく示しているお手本が、なんだか別の光景に見えてきてしまうのだ。
 カメラ付き携帯で撮ったので、写真が不鮮明で残念だが、図4(1日目と2日目のセロファンをはり合わせる図)が、私の目には、まるで丸和太郎さんが大便を拭き取ったちり紙(トイレットペーパーではなく、ちり紙二枚)をだらしなくトイレの床に置きっ放しにしたまま、
「ちゃんと拭けたかなぁ~」
 と自分のお尻を気にしている様子にしか見えなくなってくる。
 天下り先として世間から白い目で見られがちな財団法人だが、「埼玉県健康づくり事業団」が作成している(らしい)このぎょう虫セロファン封筒のセンスだけは、未来永劫変わって欲しくないものの一つだと思っている。
 

# by vitaminminc | 2006-04-26 23:08 | 笑い | Comments(2)

不健康診断

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←先住人が花壇に残していった花。毎年可憐に咲いてくれるが、名前がわからない。沈丁花(じんちょうげ)に対抗して、勝手に「おきみやげ」と命名。

 さて──花の季節。年に一度の健康診断を終えた。
 さすがにこの齢(どの齢だっていいのだ)になってくると身体にもガタがくる。あちこち「普通じゃないんじゃなか老化」というような自覚症状が出てきたりもする。実際、返されてくる検査結果は、毎年何かしらのイチャモンコメント付き。今回の検査結果が返ってくるのは、おそらく3週間ほど先になるだろう。今度ばかりはいつになく不安である。乳癌超音波検診時の検査員の表情が、妙~にひっかかっているせいだ。
 毎回乳癌の超音波検診時には、寝違える寸前まで首を捻じ曲げ、わかりもしないくせに検査員と一緒になってモニターを覗き見する私だが、今年は角度的に無理だった。モニターがまったく見えなかったので、仕方なく検査員(女性)の顔を見ていることにした。ところが、その恐ろしいことといったらない。別に検査員が般若顔だったわけではない。むしろ菩薩的ですらあった。しかし、私の右胸にローラーを転がす菩薩さまの表情が、だんだんと、だんだんと険しくなっていく様子を見たら、誰が恐怖を覚えずにいらりょーか。
 舌打ちよりも気品のある、奥ゆかしい喉ち○こ打ちのような音。ちょいと待たれよ。今のはもしや、生唾を呑み込んだ音なんじゃ内科医?
 検査員は、一定箇所にローラーを押し当てると、何度も何度も、本当に何度も何度も執拗に転がしていた。まるで、
《ちょっと待って。嘘でしょ。今のはなに? ま、まさか・・・いいえ、何かの見間違えに決まってるわ・・・》
 と祈りでもするかのように、モニターのスイッチを幾度もカチカチ切り替えては、ローラーを転がす。
 いつも、こんなに丁寧に、長い時間かけて、診てもらって、いただろうか。第一この検査員さんの眉間の縦縞は、いったい何を意味しているのか。
 やがて彼女は諦めにも似た手つき顔つきで(たぶん→)気持ちを切り替えると、今度は私の左胸にローラーを転がし始めた。案の定、左側はあっけないほど早く終了。検査員の眉間にも縦皺は刻まれなかった。
 だからこそ、なおのこと、右胸が心配になるでは内科。。。

 そういえば、健康診断当日の朝、いつものように天然ボケをやらかした。
子どもにサンドイッチを作り、余ったレタスを無意識に口に入れたらしい。シャリシャリと噛んでいたら、子どもに「ママ何食べてんの?」と聞かれた。その一言で、突然我に返った。胃のX線撮影もあるから、前日の22時以降は飲み食い禁止だったのだ。
「あ”~!」
 限りなく「だ」に近い「あ」を叫ぶと、すかさず口の中身を吐き出した。子どもの目が点になろうが知ったことではない。緑色のペースト状の物体を吐き出す瞬間、ニタリと微笑むことを忘れなかった。さすが「エクソシスト」を3回観ただけのことはある。←自己満足。
 心電図もエコーも血液検査も血圧も、検眼検便検尿も大事だが、私の場合、脳波も検査項目に加えて欲しい。実は「普通じゃない」と最も強く感じるパーツが「脳」なのだ。
 右胸に下される審判と、野放し状態の脳内環境。なんかこの先、少々不安なのである・・・。(TwT)

# by vitaminminc | 2006-04-24 11:48 | 健康 | Comments(2)

夏in春

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 地球温暖化現象の一つに違いないが、今月に入り、私は春の中で二度も夏に出くわした。
 雹と入道雲。
 雹は4月8日の昼過ぎ、入道雲は4月21日の昼下がり。
【雹】は通常、夏の激しい雷雨に伴い降るものらしい。
 この日は用事があって、いつもよりも1時間早く仕事を切り上げた。それをサボリと見抜れ・・・違う、誤解されたのか、まるで天罰でも食らうみたいに、雹雨の標的にされてしまった。
 空が妙~に暗くて、大気の乱れを感じる風が乱暴に吹き過ぎていくものだから、嫌~な予感はしていた。でも家に帰るまではどうにかもつと思ったのだ。
 自転車をこぎ始めて5分と経っていない。東の空に閃光が走ったかと思うと、すぐに雷鳴が轟き、空気がミスト状になった。この段階でどこかに雨宿りすればよかったものを、変なところで意地を張ってしまう。バッグから帽子を取り出して被り、そのまま走り続けた。霧は結ばれ雨となり、雨は雹を産み落とした。
「ぅ雹~!」
 雹は降り注ぐというよりも、何者かにぶつけられる感じ。ハンドルを握る手の甲に、パチンコ玉サイズの雹がバチバチぶち当たるのだから、痛いったらない。
「イテ手手、イテ手手」
 小さく叫びながら、それでもチャリンコをこぐ足を止めなかった。手の甲は痛かったけれど、帽子を通してバババババと細かく当たる雹は、頭皮マッサージみたいで変に気持ち良かった。
 意地悪なことに、私が家に着くのとほぼ同時に、雹はもちろん、雨もピタッと止んでしまった。数年前に父を亡くしたせいか、空模様の気まぐれが、どうも父の仕業のように思えてならない。身に覚えはないつもりなんだけどねぇ。。。(汗)

 【入道雲】──これも夏の風物詩の一つ。積乱雲は夏以外でも見られるが、青空を背景にした、いかにも「Summer!」といった風情の入道雲は、やはり珍しい。
 天気予報は一応晴れマークだったが、朝から風がぴゅ~ぴゅ~と慌しかった。まるで呼び笛を吹き鳴らし、雲を呼び集めているような感じ。
 この日は定時に仕事を終えて外に出た。仕事をしている間に雨が降ったらしい。空気が洗われて清清しく、舗道の水溜りに浮かぶ青空が、歯をキラ~ンと光らせウィンクしているように見えた。
 繁華街のビル群を走り抜け、住宅街に出て初めて気がついた。南の空に、もくもくと入道雲が湧き上がっている。亡父が好きだった夏雲だ。思えばあの夏──6月の終わり、父は入道雲を見ることなく逝ってしまったんだなぁ。。。
 入道雲を見るたびに、亡き父を偲ぶ娘です。

(写真は「ゆんフリー写真素材」さまより拝借)


# by vitaminminc | 2006-04-22 16:14 | 自然 | Comments(0)

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by み茶ママ