2006年 05月 05日
夢想in空想
昨日訪れた友人宅の居間に、二枚の絵が飾られていた。友人に聞いて、その絵が野又穣氏の作品であると知った。
絵の中に、人はまったく描かれていない。描かれているのは空想建築ともいうべき建造物が一つ。そのため、第一印象として、まず「寂寥感」のようなものを覚える。ふつう寂寥感というのは積極的に味わいたいものではないはずなのだが、どうしても惹きつけられてしまう。天空を意識させる建物、深みのある空の色や上昇気流を感じさせる雲の動きが、圧倒的な「解放感」を与えているせいだ。
まもなく、私はあることに気づいて胸がキュンとなった。無人の風景は、人を拒んでいるのではない。人が存在する理由を再認識させてくれる──そんなやさしさを秘めているように思われた。
人が集う居間に飾られた二枚の絵は、見た者の心を塔の中に呼び込み、そこから遥か上空まで引き上げ解き放ってくれるような気がした──「対流」のように。
その絵を見た翌朝、不思議な夢を見た。もともと夢なんて不思議なものに違いないが、今朝見た夢は格別だった。自分が遭遇するシーンごとに、第三者としての自分が何らかの分析を加えながら展開していくのだ。
──私は知らない街にいる。辺りは暗く、足がすくむような雷、そして豪雨。雨のスクリーンの向こうに、なにやら建物らしき影が揺らめいて見える。あそこに行きたい。だが動けずにいる。
と、誰かに強く手を引かれた。夢の中の自分が何歳くらいなのか見当もつかないが、間違いなく夢の中の自分と同じくらいの齢の女性。彼女は私の手をつかむと、頼もしく頷いてみせた。そして次の瞬間、私たちは勢いよく走り出していた。
(これは母だ)ともう一人の自分が直感した。(母があそこの建物まで私を連れていってくれようとしている)
夢を客観的に見つめるもう一人の自分がそう判断すると、シーンはいつのまにか建物の内部に変わっていた。コードが抜かれたままのテレビが、剥き出しの地面の上に放置されている。誰もいない。初めて入った建物のはずなのに、前に見たことがあるような気がする。
(これは昨日見た絵の中だ)ともう一人の自分が納得する。(友だちの家で見た、あの絵の建物の中なんだ)目覚ましが鳴り、夢はそこで途切れた。
夢から覚めた私は、夢の中のもう一人の自分に代わって最後の分析を試みる。つい最近、母親が確実に老いてきたことを認めないわけにはいかないシーンがいくつかあった。見た目は若いが、母親は実際古稀を過ぎている。駅の階段の途中で立ち止まってしまう母。それを待っている時や、手を引いて歩いた時に感じた切なさを、私は消化し切れず心の中に溜めていた。あの二枚の絵は、そんな思いを吸収していたのかもしれない。
だから夢の中で私を塔に導き、解放してくれたのだ。そんな気がしてならない。
(写真は「ゆんフリー写真素材」さまより拝借)