2006年 11月 22日
なんちゃってグラタン
山車というものにくっついて行くことを思いついた私は、早目に昼食を済ませたいと思っていた。なのにその日に限って、母は悠然と構えていた。家の中に父の姿が見えなかったことが影響していたようだ。
「ねぇねぇ、早く作ってよぉ」
急かす私をチラとも見ずに、母は裁縫箱を広げたまま、腰を上げようとはしなかった。
「どうせ山車がこっちの方に回ってくるのは、2時を過ぎる頃でしょう」
食事の時間にうるさい父がいないその貴重な半日を、母は自分のペースで過ごすことに決めているようだった。
そこで私は、近所に住む幼なじみから聞いた「グラタン」について、熱く語り始めた。
「おかあさん、グラタンて知ってる?」
「?」
「フランスのたべものなんだって。○○ちゃんちがこないだ日本橋のデパートに行って、そこの食堂で食べたって言ってたよ。すっごくおいしかったって。お焦げのところが、すっごくおいしかったって言ってたよ。おかあさん作ってくれる?」
「フランス料理?」
「マカロニが入ってるの」
「ふ~ん・・・」
それから私は母が昼食を作っている間、庭に出てトカゲを探したり、茶の間の熱帯魚を見たりして過ごした。
しばらくして、母が私を呼んだ。
キッチンのテーブルに着いた私に、母は堂々と言ってのけた。
「グラタンよ」
目の前にデンと置かれた浅い両手鍋は、どう見ても前の晩に食べたすき焼きの残りだった。そしてその残り汁の中には、茹でたマカロニが、焦げ付くように寝そべっていたのである。
「おかあさん、これグラタン?」
母は私ににこっと笑いかけると、一点の曇りもない目でもう一度言った。
「そう、グラタンよ」
○○ちゃんが言っていたグラタンは、確か白い色をしているはずであった。牛乳の味がするはずであった。でも、もしかしたらグラタンにもいろいろあるのかもしれない。私は無理矢理自分を納得させた。そして昨夜と同じ味がする‘グラタン’を鍋から直接食べると、急いで外へ飛び出した。
「○○ちゃんも一緒に行くんでしょう?」と聞く母に、
「違うよ、一人で行くんだよ」と答えた。
そうだ。この日私はたった一人で山車に加わったのだ。ドキドキした。山車はゆっくりと町内を練り歩き、私が1人では行ったこともないような方角へ進んで行った。
だんだん不安になってきた。帰れるのだろうか? 今まで来たこともないほど遠くまで来てしまった。少し大きくなってからわかったことだが、その山車は町会の所有物で、何年かに一度、町内をぐるりと回るようだった。幼い娘が1人で山車について行くというのを聞いても、母が心配しなかったのは、その山車が戻ってくる場所が、私の住む3丁目の稲荷神社だとわかっていたからなのだった。
それでも、当時の私はそんなことは知る由もない。たぶん途中から人知れずにべそをかきかき歩いていたと思う。迷子になるとわかっていながら平気で送り出した母。一緒に行こうねと約束していたのに急に行けなくなった○○ちゃん。みんながみんなグルになっているような気がして恐ろしかった。
そうなると、起きながら怖い夢を見ているようなものだ。妄想は際限なく膨らんでいく。
「グラタンよ」と言って鍋を用意したときの母の笑顔。どことなく不自然だった。
もう永遠に、家には帰れないと思った。しかし、どこをどう歩いたものか、現実は私をやさしく裏切った。山車はいつのまにか、見覚えのある商店街の中を進んでいた。私はスッと山車から抜けて、いもしない追っ手を振り切るように、一目散に家に向かって走った。
「ただいま!」
母が宇宙人と入れ替わっていてもいい。私が気づかないふりさえしていれば、きっと怖いまねはしない。そしていつか本当の母が戻ってくるに違いない。
「結構時間がかかったわね」と母は言った。
いつもの母に戻っているように思えた。
「途中で迷子になったけど、わかるところまで来たから、1人で帰ってきた」
「神社まで戻ってからうちに帰ればよかったのに。山車についてった子どもたちには、アイスキャンディーが配られることになっていたのよ」と母は笑った。
そんなもの全然惜しくはなかった。玄関に足を踏み入れるまでの不安に比べたら、そんな溶けて消えるようなものなど、どうでもよかった。
いつもどおりの母の様子を見て、少しでも宇宙人を疑った自分を恥じた。だから、
「おかあさん、ホントはグラタン知らないんじゃないの?」という疑問は小さな胸にしまっておくことにした。
今でも山車を見ると、なんだかカラーの怖い夢を見ているような錯覚に陥る。そして、生まれて初めて食べた‘グラタン’が、すき焼きの味だったという舌に残る記憶。私がすき焼きの、あのワザとらしい甘ったるい味があまり好きではないのは、これらの強烈な記憶によるのかもしれない。
by vitaminminc
| 2006-11-22 16:40
| 笑い
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